この夏ヒットした映画の主題歌を口ずさみながら事務所の窓を開けると、そこには通学途中の女子高生がいて、とっさに身構えるその子とほんの一瞬視線が重なる。
その映画には3回も観に行った程にハマっていた。当然、歌う声にも力が入るわけで、勢いよく窓を開け放った俺としては若干の心苦しさを感じる。応急的にハミングに切り替えてはみたものの、「ぜんぜんぜん」が「ふんふんふん」に変わっただけでは効果は薄いようだ。
足早に立ち去る彼女の後ろ姿は釈明の機会も与えてくれない。
寂しい思いで見送っていると、今度は事務所の入り口に一人の男性が立っているのを見つけた。
みるからに悩みを抱えた相談者。しかし俺にだって心の傷をいやす時間は必要で、しかも始業まで30分以上もある。静かに静かに後ずさりをしていると、そんなことはお構いなしにインターフォンが鳴った。
「会社を乗っ取られたんです」
青年Aと名乗った男性は、勝手に話をし始めた。全自動的に語り続ける青年Aによれば、会社は父親がその友人Xを誘って10年前に起こしたものらしい。ハウスクリーニングとリフォーム業を営むその会社は順調に成長を続け、今では年商5億、30名の従業員を抱えるまでになったという。
大学卒業後に一般の会社に就職していた青年Aは昨年、父親から跡を継いで欲しいと頼まれ、意を決して父の会社に飛び込んだ。父の会社はいかにも順調に見えたし、余命宣告を受けた父の頼みを断る理由も見つからなかったためだ。
「父は、先月亡くなりました」
青年Aは、そこで一旦言葉を閉じた。俺はお茶でも出してやろうと立ち上がり、ポットの電源が入っていなかった事に気付いて手ぶらで戻る。
俺の空振りをつゆ知らぬ青年Aは、俺の着座を待って話を再開した。青年Aは1年間会社の業務を勉強し、会計を学び、社内の人間関係を構築し、必死の思いで事業承継に備えた。
兄弟はいない。父が保有する会社の株式80%はそのまま青年Aが相続する。
――そう思っていた。
父親の会社の定款には以下の規定があった。
第○○条(相続人等に対する株式の売渡し請求)
当会社は、相続その他の一般承継により当会社の株式を取得した者に対し、当該株式を当会社に売り渡すことを請求することができる。
つまり、青年Aが相続した株式は、会社が買い取ることが出来るという事。
買取をするには株主総会の特別決議が必要だが、買取請求される青年Aは議決権を行使する事ができない(会社法第175条第2項)。そのため、20%を保有する友人Xの賛成だけで可決されてしまったのだ。可決されると青年Aは売渡を拒否出来ない。
この規定自体は、会社にとって良くない株主の誕生を阻止する上では有効なため、ひな形定款なんかにもよく載っている。
定款は、会社の様態に合わせてきちんと設計しなければならないのだ。せめて父親が亡くなる前に相談に来てくれていれば。もう少しだけ前に。そう思う俺の頭の中でまた「ぜんぜんぜん」とメロディーが流れ始めた。